トップページ > 看護介護全国ニュース(BERITA PERAWATAN) > 2011年5月 第125号

ヘッドライン ... このニュース記事は、EPA(経済連携協定)及び、外国人看護師・介護福祉士に関する全国ニュースをダイジェストでまとめたものです。

外国人看護師、九州でただ1人合格 インドネシア人女性 (2011/3/31 朝日新聞)

大牟田市の三池病院で研修中のインドネシア人エフィ・インダルワティさん(31)がこの春、看護師国家試験に合格した。病院や地域の人たちの支援を受けて全国で16人、九州でただ1人という狭き門をくぐった。

インドネシアで看護師だったエフィさんは2008年8月、日本とインドネシアの経済連携協定(EPA)に基づき、看護師候補者として来日。看護助手として三池病院で働きながら、試験に備えて日本語の勉強を続けてきた。

エフィさんは今回で3度目の挑戦。インドネシア人の受験者285人のうち、合格者は15人だった。同病院では河野洋子看護部長らが教育チームを編成し、大牟田医師会看護専門学校も模擬試験や講義で支援を続けた。病院の近くに住むインドネシア人の調理師と日本人妻の応援や、病院行事で地域の人と交流できたことも支えになったという。

エフィさんは、「みんなのおかげで合格できました」と笑顔を見せたが、「インドネシアから来た友だちの合格が15人でさみしい。日本語が難しかった」と仲間への思いやりも見せた。

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EPA看護師胸高鳴る インドネシアの女性が東海初 (2011/4/1 中日新聞)

日本・インドネシア間の経済連携協定(EPA)で来日し、東海地方で初めて看護師試験に合格したフェラ・イラワティさん(29)が1日、勤務する岐阜市長良福光の岩砂病院で日本の看護師として新たなスタートを切る。「しっかりとした技術を身に付けたい」と期待に胸を膨らませる。

フェラさんは2008年8月、外国人看護師候補者の第1陣として来日。09年2月から、同病院で看護師助手として働きながら試験を目指してきた。

幅広い知識とともに、褥創(じょくそう)や嚥下(えんげ)障害など日本人にとっても難解な医療用語を理解していないと合格できない看護師試験。1日3〜5時間の勉強に加えて、分からないことは職場の看護師や医師はもちろん、患者らにも聞く積極的な姿勢で取り組んだ。

周囲には弱音を吐かなかったが、母国の家族には何度も電話をかけ、泣きながら不安や不満をぶつけた。

試験挑戦は3回目。今回も「自信が無かった」が、25日の合格発表では、松井和世看護部長と伊川順子副看護部長とインターネットで受験番号を発見。3人で抱き合って喜んだ。

長野俊彦院長は「大変な努力の結果であり、大変な業績。医療界全体が看護師不足の中、当病院で働いてもらえるのもうれしい」と歓迎した。

31日に真新しい看護師の制服を渡されて顔をほころばせ、「役に立つ良い看護師になりたい」と決意を新たにした。1日から内科で働く。

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インドネシア人のビンジョリさんが看護師合格 EPAで県内2人目 (2011/4/3 下野新聞)

国の経済連携協定(EPA)に基づき、野木町の「リハビリテーション花の舎病院」で研修を受けていたインドネシア国籍のジャヒサル・ビンジョリさん(28)が看護師国家試験に合格し、2日に同病院で行われた新職員の「入職式」に臨んだ。EPAによる県内の外国人看護師は、足利赤十字病院のフィリピン人女性に続き2人目となる。

2月に実施された国家試験は受験者398人のうち、合格者はわずか16人。難関を突破したビンジョリさんは、入職式で「合格できたのは皆さんのおかげです」と病院関係者に感謝の言葉を述べた。

インドネシアで看護師だったビンジョリさんは2008年8月、「世界でトップレベルの日本の技術を学びたい」と、外国人看護師候補者の第1陣として来日した。翌年2月から同病院で看護助手として働きながら、試験勉強を続けてきた。

インドネシア西部のスマトラ島出身。04年のスマトラ沖大地震の際は、大津波の被害に遭った人たちなどの治療に当たった。「数え切れないほどの遺体が転がり、至るところから『助けて』という声が聞こえた。悲しくてつらかった」と振り返る。

ビンジョリさんは東日本大震災の被災者にも「自分の経験を生かして、力になりたい」と話している。

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看護師候補者が義援金「早く日本で支援したい」3ヵ月後の渡日控え (2011/4/4 ジャカルタ新聞)

南ジャカルタの教育省語学教員学習センターで日本語研修を受講している日本とインドネシアの経済連携協定(EPA)に基づく看護師・介護福祉士候補者が東日本大震災を受けて義援金を集め、二日、代表者三人が南ジャカルタの駐インドネシア日本大使公邸で塩尻孝二郎大使に1,530万ルピア(約15万円)を手渡した。6月末までの3ヵ月の研修を経て日本へと発つ候補者104人は、先月22日から日本語や日本での働き方などを学ぶ合宿生活を開始。震災は候補者が病院や施設との仮契約を結び、研修を開始する直前に発生した。

合宿生活で仲間とともにテレビなどで被災の報道に接してきた候補者たちは「(2004年の)アチェの地震のときは日本がインドネシアを支援してくれた。今回は逆に私たちが日本を助けるとき」と話し合い、各候補者が手持ちのお金を出し合った。

塩尻大使は「準備にお金が必要な中で本当にありがたいこと。インドネシアの人もそうだが、日本人、とりわけ東北の人たちはねばり強いので、必ずまた立ち上がる。頑張っている人たちの姿を見ていただいて、ご自身もねばり強い人になってもらいたい」と激励。

代表者の一人のフェラ・ディアナ・サエランさんは「(大使から被災状況の)説明を聞き、もっと早く日本へ行き、機会があれば被災者の手助けをしたいと思った」と語った。

2008年に開始した受け入れ事業の4年目の看護師・介護士候補者はインドネシアでの3ヵ月の研修後、日本で6ヵ月の研修を行い、来年初めから各地の病院・施設で働き始める。

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「みんな大変、戻らないと」被災地から帰国した介護士 エミー・ワヒュニさん(2011/4/14 ジャカルタ新聞)

東日本大震災で甚大な被害を受けた東北三県などで働いていたインドネシア人200人以上が被災後、インドネシアへ退避した。沿岸部が津波で壊滅的な被害を受けた宮城県名取市で介護福祉士として働くエミー・ワヒュニさん(28)もその一人。現在はジャカルタの実家で家族と過ごしているエミーさんに、震災時の様子を聞いた。

エミーさんは名取市の社会福祉法人・宮城福祉会が運営する視覚障害老人ホーム松風荘で働く。松風荘は丘陵地にあり、津波は届かなかったが、沿岸からの直線距離は約6キロ。同市では沿岸から約4キロまで浸水しており、名取川では約6キロ上流まで津波が逆流している。

エミーさんは2008年に始まった看護師・介護福祉士候補者派遣事業の2年目となる2009年11月に来日し、翌年1月から松風荘で働き始めた。

仕事は「寝てから起きるまで」とエミーさん。食事やトイレの介助やおむつの交換など身の回りのあらゆる世話をする。重労働で「体は大変」というが、気さくな入居者たちにの間に囲まれ、「働いていると時間が経つのを忘れる」と充実した日々を送っている。

宮城県福祉会は複数の施設で6人のインドネシア人介護士を受け入れており、6人のために住居も新築された。十分の距離を日本に来て初めて乗ったという自転車で通っていた。

11日は夜勤の日。いつものように昼寝から目を覚ましてそれほど経たない午後2時46分に地震が発生した。

インドネシアでも宮城でも地震は経験している。揺れ始めたときは「いつものこと」と落ち着いていたが、揺れはどんどん大きくなる。パニックになって外に飛び出すと、アパートにいたほかの介護士2人も飛び出ていた。

情報は何もなく電話はつながらない。どうしていいか分からず、3人はアパート前の駐車場で肩を寄せ合っていた。道路を挟んだアパートからも、数人が屋外に出ているのは見えた。

午後4時、心配した日本人職員が車で迎えに来て、施設へ向った。松風荘に入ると中は人でいっぱい。隣接する施設は、エアコンが落ちるなど物が散乱して使えなくなり、入居者が松風荘に集まっていた。

部屋に入りきらない人たちたちは廊下に布団を敷いて寝た。電気は通らず、暖房器具がない状態が3日間続いた。食事も非常食しかなく、1日に2回だけ。

「こんなに寒くておなかが空くんじゃ死んだほうがましだ」と漏らす人も。ストレスのせいか、夜中に徘徊したり、「エミーさん、エミーさん」と呼ばれる回数も多くなった。これまで個々の部屋で過ごしていたインドネシア人介護士たちは、不安のため一つの部屋で寝泊りした。

地震から3日後の14日、この日も夜勤で家にいたエミーさんを突然、在日インドネシア大使館の職員が訪ねてきた。せかされて移動の用意をしたが、「東京に少し避難するだけ」と思い、数日分の着替えしか持たなかった。だが、細かい事情も分からないまま、17日には着の身着のままでジャカルタ行きの飛行機へと乗ることとなった。

後ろめたさを感じたが、そのときは被害の甚大さをまったく知らなかった。停電でテレビも見れず、あわてて帰ってきた。初めて津波の映像を見たのは帰国後のニュースだった。自分のいた場所のすぐ近くが悲惨な状態になっていることを知り、改めて恐怖感を覚えた。

同僚の一人は、日本に戻らず、インドネシアへ残ることを決断した。すでに結婚しており、家族の反対を押し切れなかったのだろうという。強い余震が続いていることも知っている。施設ではまだ食料や燃料の確保が大変だと聞いた。

「施設が気がかりだった。みんな大変な思いをしているから」と語るエミーさんは22日再び日本へと向かう。

「戻るのは怖くない?」と尋ねると、力強い答えが返ってきた。「インシャ・アラー(神の思し召しがあれば)。私には責任があるから」

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過去最大15%が訪日辞退 看護師と介護士候補(2011/4/18 共同通信)

経済連携協定(EPA)に基づき、看護師と介護福祉士資格取得を目指すフィリピンとインドネシアからの2011年度の候補者の約15%、43人が訪日を辞退していることが16日、分かった。両国と日本側との仲介機関、国際厚生事業団(東京)への取材で判明。東日本大震災や収束の見通しが立たない福島第一原発事故の不安を理由に挙げている。

事業団によると、辞退者は、フィリピンの看護師候補者が28人、同国の介護福祉士候補者が7人、インドネシアの看護師、介護福祉士候補者は計8人。訪日予定は両国の計239人となった。受け入れ施設側の都合で訪日が取りやめとなった人もおり、当初予定者の約15%が減った。これまで辞退者が多かったのは09年度の23人。

理由は放射性物質への不安が多く、東日本大震災や余震の心配が続いた。

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「日本でずっと働きたい」(2011/4/19 ジャカルタ新聞)

東日本大震災の被災地では外国人の活動も目立つ。日本の介護福祉士を目指し、養護老人ホームで働くインドネシア人男性ジャジャン・ラフマット・ヒダヤットさん(22)もその一人。「国家試験に合格してずっと働きたい」と、余震が続く中、人手不足が続く職場で頑張っている。

養護老人ホームは宮城県名取市の「松寿園」で、昨年暮れから働き始めた。震災後、在日インドネシア大使館から「とりあえず東京へ」の呼び掛けもあり、いったん帰国したが、4月5日に戻った。

松寿園は現在、別の施設の利用者も受け入れており、入所者が普段より多い。そんな中、経済連携協定(EPA)に基づき来日した別の二人と一緒に、お年寄りの世話に懸命に当たっている。

松寿園は3月11日、ガスや水道、電気が停止したが、犠牲者はいなかった。ジャジャンさんは「怖かった」と振り返るが、入所者を別の施設に誘導するなど奔走。一時帰国しても「利用者さん、大丈夫かなあ」と施設のことが頭から離れず、戻ってから入所者に「心配していたよ」と声を掛けられ、うれしかった。

介護福祉士になるためには、国家試験や実務経験が必要。地震について「母国の家族は心配しているけど、いつでも電話ができるから大丈夫」と笑顔を見せた。

松寿園の職員山司宜子さんは「他施設からの受け入れを続ける中、再来日して懸命に働いてくれてありがたい」と話した。

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「日本の看護師として恩返し」- 国試合格のEPA看護師候補者、決意新たに(2011/4/21 キャリアブレイン)

日本との経済連携協定(EPA)に基づいて来日しているインドネシア人看護師候補者のうち、今年の看護師国家試験に合格した人たちをたたえようと、日本インドネシア協会が4月21日、東京都内で表彰式を行った。合格者を代表してあいさつしたフェブリ・イェニさんは、「お世話になった皆さんのために頑張りたい。少しでも多くの患者が元気になってくれるよう、日本の看護師として恩返しをしたい」と決意を語った。

今年2月の看護師国家試験では、EPAに基づいて来日しているインドネシア人とフィリピン人の看護師候補者で受験した398人のうち、16人が合格した(合格率4%)。

表彰式には、このうちインドネシア人看護師12人と、看護師を受け入れている病院の関係者らが出席し、日本インドネシア協会会長の福田康夫元首相から一人ひとりに表彰状が手渡された。

看護師12人を代表してあいさつに立ったフェブリさんは、2008年8月に来日し、山形県米沢市の舟山病院で働きながら試験勉強に励んだ。しかし昨年5月、インドネシアに暮らす母親が急逝し、一時期、勉強を切り上げて帰国していた。再び来日した後も、精神的ショックなどからしばらく勉強が手に付かなかったというが、病院のスタッフや友人に励まされ、粘り強い追い込みの結果、合格をつかみ取った。フェブリさんは、「合格した時のうれしさは、ずっと忘れられません。お世話になった日本の皆さん、一緒に頑張ったインドネシアの人たち、母のためにも頑張っていきたい。少しでも多くの患者様方が元気になってくれるように、日本の看護師として恩返しをしたい」と力強く語った。

■余震の不安、それでも「日本で勉強したい」

今年の看護師国家試験をめぐっては、試験日から合格発表までの間に東日本大震災が発生し、晴れて合格したものの、依然続く余震や原発事故などで、日本での暮らしに不安を抱く人も少なくない。

菊名記念病院(横浜市)で働くアイヌール・ロフィックさんも地震の揺れを経験し、故郷の家族からも心配の声が届いているが、日本で働きたいという意志は固い。「ようやく日本の国家試験の免許をもらうことができたところ。日本の看護技術や看護理論をもっともっと勉強したい。周りの人も優しくサポートしてくれるので、自信を持って頑張りたい」と話している。

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「日本にお返し」被災地へ=インドネシア人看護師−兵庫 (2011/4/24 時事ドットコム)

インドネシアから来日し、3月に看護師試験に合格した兵庫県姫路市のスワルティさん(32)が24日、岩手県の避難所に向かった。2004年のスマトラ島沖地震で感染症治療に当たった経験から「薬の提供などで支援を受けた日本にお返ししたい」と強く希望した。出発式でスワルティさんは「微力だが、力になりたい」と涙ぐみながら決意を語った。

インドネシアで看護師として働いていたスワルティさんは08年、「医療水準の高い国でレベルアップしたい」と来日。姫路赤十字病院で働きながら研修し、国家試験に合格した。「スーさん」と親しまれ、明るい性格で周囲に溶け込んでいるという。

日本インドネシア協会(東京)で21日に開かれた国家試験合格者の表彰式で、スワルティさんは被災者へのメッセージをスケッチブック4冊分集めた。「みんな応援していることを伝えたい」と被災地に持参する。

姫路赤十字病院は、スワルティさんや医師ら8人を派遣。岩手県山田町の避難所の山田高校で28日まで活動する。

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